オレは「souseki」というHNを使うことが多い。
別に学校文学が好きだとか、文壇がおすすめする夏目漱石の熱烈な崇拝者というわけではない。
単純に苗字が同じだからである(笑)。
とはいえ、「souseki」などと名乗っている以上、あまり恥ずかしいことにならない程度には夏目漱石を読んできた。
その中でも、今でも時々読み返しているのが『我輩は猫である』だ。
昼休みなどに本を適当にパッと開いて、そのページから読む。
最初から順番に読まなくてもいい。どこを開いても、なにかしら面白い。
小学生の頃に初めて読んでから、いったい何回読んだだろう。
話の筋はもう分かっている。それでも読むたびに笑ってしまう。
オレにとって『我輩は猫である』は、人間の愚かさを書いた小説として、これ以上ない傑作だと思っている。
なにしろ、人間が人間を見て「お前は愚かだ」と言っても、あまり面白くない。
ところが、それを一匹の猫が少し離れたところから観察している。
人間たちは本人たちが大真面目なのに、猫から見ればどこか滑稽だ。
見栄を張ったり、知ったかぶりをしたり、妙なことで悩んだりしている。
その距離感がなんとも面白い。
人間の罪深さを描いた『こころ』もいい。
人間のエゴイズムを描いた『明暗』もすごい。
それでもオレは、やっぱり『我輩は猫である』が一番好きだ。

夏目漱石といえば、なぜか森鴎外も思い出す。
明治文学を代表する二人の文豪。
漱石が天才肌の作家だとすれば、鴎外は努力と知性を積み重ねた人という印象がある。
オレが一番好きな鴎外の作品は、やっぱり『阿部一族』。
「これしかないだろ?」と思うほど好きな作品だ。
人間が持っている好き嫌いや感情が、大きな悲劇につながっていく。
鴎外についてはいろいろ言いたいこともあるが……。
ま、話がそれた(笑)。
『我輩は猫である』を読み返すたびに驚くのは、漱石の観察力だ。
人間だけではない。
猫の仕草や動きまで、実によく見ている。
たとえば、猫の世界のボス格である「東屋の黒」。
その猫が悪ぶった格好をする場面で、漱石はこう書いている。
「腕まくりの代わりに、右の前足を逆さに肩の辺まで掻き上げた」
猫なのに「腕まくり」。
この一文だけで、その猫がどんな顔をして、どんな格好をしているのか想像できてしまう。
人間の仕草を猫に重ねることで、東屋の黒の「ちょっと悪ぶった粋な感じ」まで伝わってくる。
漱石は落語が好きだったというが、こういう表現には、どこか落語のような可笑しさがある。

大げさに笑わせようとしているわけではない。
でも、さりげない一文が妙に可笑しい。
そんな細部が、この小説のあちこちにちりばめられている。
だから何度読んでも飽きないのだと思う。
オレの場合、最近は小説を「読む」というより、本の中を観察しているような感覚になる。
漱石は何を見ていたのか。
なぜ、こんな表現を思いついたのか。
物語の筋を追うだけなら、一度読めばいい。
でも細部を眺め始めると、この小説は何度でも楽しめる。
『我輩は猫である』は、人間を観察した小説であり、
オレにとっては、漱石という作家を観察するための一冊でもある。
そんな読み方をすると、100年以上前の猫が、今でもなかなか面白いのである。
