饒舌な寝言的・努力論


三島由紀夫が、努力についてこんなことを書いている。

大体”天才は努力である”

ということわざにもあるように、

磨かれない玉も磨かれなければ

そのまま誰にも認められずに終わってしまうことは、

よく言われることである。

こうした格言は、立身出世主義の社会では

それこそ珠玉のように見られていた。

人々はあくせくと努力し、

そして生存競争の激しい社会で人を押しのけては、

自分のあさましい努力を誇示しつつ、

世間的な勝利者になっていったのである。

努力というものの価値を一度も疑ったことがない、

こと日本では。

by三島由紀夫



磨かれない玉は、どんなに素質があっても、磨かれなければ誰にも認められずに終わる。昔の日本では、こうした格言はまさに珠玉のように扱われていた。人は努力する。
努力して、努力して、人を押しのけ、最後には「これだけ努力した」と自分の努力まで世間に見せながら、勝ち組になっていく。そして、日本では長いあいだ、努力というものの価値を疑うこと自体が、ほとんど許されなかった。戦後の日本が、ひたすら働き、努力を積み重ねて豊かになっていったことを考えれば、それも当然なのだろう。

人が汗をかいていれば、自分もじっとしてはいられない。

「努力することは良いことだ」

これは誰も疑わない。

オレも、そういう時代の人間である。

ただ、歳を取ってくると、ふと思う。

いったい、何が楽で、何が努力なんだ?

人間というのは、場合によっては「楽をすること」のほうが苦しい。

貧乏性に生まれたオレなんかは、突然「もう努力しなくていい」と言われたら、それはそれで困ると思う。何をしていいのかわからない。何十年も会社で地味な努力を続けてきた人間が、定年になった途端に抜け殻のようになる話は珍しくない。仕事がなくなったからではない。それまで努力することの中に、自分の生き方のモラルまで組み込んでしまったからだ。

努力している自分こそが、自分だった。

だから努力を取り上げられると、人生の空白にどう向き合っていいのかわからない。これは、なかなか皮肉な話である。

そして三島の文章を読んでいて、オレが妙に引っかかったのが、その先だった。われわれの社会は、努力そのものに道徳的な価値を置きすぎる。



だから、ときには能力のある人間に、わざと遅く走らせる。

100メートルを10秒で走れる青年がいる。

ところが、みんな18秒で走ることになっている。

だから10秒で走れる人間も、18秒で走らなければならない。

出過ぎるな。
勝手なことをするな。
みんなと同じ速さで走れ。

そうやって「努力している姿」が、能力そのものより評価される。

一方で、100メートルを30秒かかる年齢になった人間がいる。

こちらには、こちらで別の重荷が乗ってくる。

「若いものには任せられない」

そう言って、30秒の身体で18秒を走ろうとする。

本人も半分は気持ちよくなっている。

「オレはまだまだやれる」
「若い奴らには負けられない」

努力している姿を若い世代に見せる。

努力、努力、また努力。

そして、それを「立派な生き方」として次の世代にも教える。

しかし、ここで少し考えてみたい。

本当に一番つらいのは、努力することなのだろうか。

オレは、そうではないような気がする。

一番つらいのは、自分に能力があるのに、その能力を使わないように制限されることではないか。

10秒で走れる人間に18秒で走れと言う。

30秒かかる人間に18秒で走れと言う。

どちらも「努力」という同じ言葉で語られるが、苦しさの種類はまったく違う。

前者は、自分の力を抑え込む苦しさ。

後者は、自分の力以上のものを無理やり背負う苦しさだ。

どちらも不自然である。



人間は、本来、自分の持っているものを使いたい生き物なのだと思う。

絵が描けるなら描けばいい。

文章が書けるなら書けばいい。

何かを作れるなら作ればいい。

速く走れるなら、速く走ればいい。

それを「みんな同じように」という理由で抑え込んだり、逆に「まだ頑張れるだろう」と無理やり走らせたりする。

そして、それを「努力」という美しい言葉で包んでしまう。

オレ自身、デザインという仕事を長くやってきた。

振り返れば、努力したというより、やらずにはいられなかったことのほうが多い。

描きたいから描く。

考えたいから考える。

気になるから調べる。

面白そうだからやってみる。

傍から見れば努力に見えても、本人にとっては、それほど苦痛ではないこともある。むしろ、やらないほうが気持ち悪い。

だから最近は、「努力」という言葉を少し疑っている。

努力しているから偉い。

努力していないから怠け者。

そんな単純な話ではないだろう。

人間には、それぞれ自分の速度がある。

10秒で走れる奴が18秒で走る必要もないし、30秒の奴が18秒を義務にする必要もない。ましてや、人生の終盤まで「努力している姿」を他人に見せ続ける必要などない。

そろそろ、自分の速度で走ればいい。

いや、走りたくなければ、歩いてもいい。

立ち止まってもいい。

そのほうが、案外まともな人生なのかもしれない。

努力しないことより、

自分の持っているものを使わずに終わること。

オレが怖いのは、そっちのほうである。



Ps とある方に

「老いて朽ちる前にアートで爪痕を残す」というMASAN ARTの考え方とも、実はつながっているな」
と言われた。なるほど^^

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