なんちゃって天才論・1

クレッチマーは天才の定義を「積極的な価値感情を広い範囲の人々に永続的に、しかも稀に見るほど強く呼び起こすことの出来る人物」としロンブローゾは「天才は狂気だ」といい。
エジソンは「天才とは1%の閃きと99%の努力」と述べている。

「天才」と聞くとなにか凄い特別な人のように思われるが、なるほど特別といえば特別なのかもしれない。何らか特殊な才能、常人とは違う人、しかしそれは、いきなりそんなふうに特別であるわけがない。天才の為すところ、当人の意図を越えている所にこそあると言っていい。天才の自覚、それは直感や閃きとして与えられるはずだ。

個人の中に天才の定義を閉じ込めようとしても、潜在意識の中に存在する天才たちには無用だろう、閃きが”提示”された途端、きっと天才は覚醒するのだから。天才は「天」とつながったとも考えられる。「天」とつながってしまったような人が、今さら人の世のあれこれなど、どうでもよくなるのは決まっている。そういう生き方、考え方が結果として世の常識をぶち壊すことにもなる。ぶち壊そうと思ってぶち壊すことなど、しょせん賢しらな意図の為すところだろう。

古人は、天才を指して「ダイモン」に憑かれた人とも呼んだとか、個人を越えた何がしの大きな力に突き動かされて事を為す人。”天才”と”狂気”がほぼ同じと言われるのもこの理由だろう。社会常識など知ったことか、自分にはこうとしかすることができないのだ。こうする以外の何があるというのだ。

”それしかできない”というのが”天才の定義”のひとつなんだろうか。
なんちゃって天才論 2へ続く…。

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